曖昧な記憶と断片しかない過去
いま私は「過去形」というタイトルで詩集をまとめようとしている。いつ本になるか分からないのだけれど、ともかくその方向でまとまった数の詩を書いている。過去形の進行形というわけだ。そんな風なタイトルの詩も書いている。 過去の私にすれば、過去を書くということは、あまり楽しい作業とは思えなかった。いや、過去だけではない、剥きだしの感情、感傷的な私、食生活、性生活、なにひとつ書きたいと思ったことなど無かったと思う。それなのに、いまになって過去形はないだろうとは、私も思う。 しかし、この頃気づいてしまったのだが、脚色した過去を書く必要はどこにもないのだし、第一なにが本当の過去なのか自分でも見当がつかなくなってしまっている。これが、老齢化というものなのかもしれないが、私は違うと思っている。中学生のときを思い出しても、三年生のときには二年生だった自分を正確に思い出すことなどできなかったように思えるのだから。ここでそのころの私について具体的なことを書いても、当時の知人がこの文章を読んでいるとは思えないので、確認のしようもないがとにかく表現行為としてでもなんでもなく昨日のことでさえ脚色された記憶しか残っていない。それが、過去だということに気づいた。 それならば、過去の記憶にもとづいたように思われる詩を書いても、実際には私の過去とはなんの関係のないものになっているに違いない。そう思うと、経験の方が想像力よりも格段に豊富なのはいうまでもないことなので、なにか書けそうな気がしてきた。これは、いままでの私にとっては冒険に思えた書き方に挑戦できるチャンス。それほど単純な話しでもないのだが、とにかく私はいま過去を書こうとしている。 |