未来についてどんな嘘がつけるのか
1999年3月16日早朝 もう私は深夜や早朝に文章を書くような生活から離れて久しい。それでも、先ほどまで過去のことを書いていたら、それでは未来はどうなんだろうという疑問がわいてきて、またキーボードに向かうことになってしまった。先ほども書いたように、私は過去はそれぞれの個人が自分に都合のいいように記憶を変造した、その集合体だから信用できるものではないと思っている。 しかし、未来はいまだ存在していないだけに、なにを言っても嘘にはならない。できそうにない約束でも、もしかしたら実現するかもしれないのだから、厳密に嘘だといって否定し去ることはできないはずだ。 SF小説の長年の読者である私は、臓器移植の日常化が臓器窃盗犯を生み出す未来をテーマにした小説をもう20年以上前に読んでいる。クローンはそれこそSFでは定番の題材だ。羊が生まれたし、豚の内蔵に人間の遺伝子を組み込んで、臓器移植用に使う構想も、それほど突飛には思えない。 問題は、人間がなんとか死から逃れようとしてあがいている姿だ。いろいろな臓器をパーツとして移植して、老化の謎も解いて、それでも人間は死ぬに違いない。事故もあるし、宇宙的な規模で考えれば、地球や太陽の寿命もつきる日が来るというのに、人間が不死性を獲得できるわけがない。いろいろな努力の結果やたらと長寿になって、それでも死ぬ日が訪れるとしたら、苦痛は現在の死と比較しようもないほど大きいだろう。なにしろ、ほとんど死なないと信じていて、心の準備ができないわけだから。 こうやって考えてみると、未来について嘘はつけないような気がしてきた。死という事実がそこに待っているだけで、人間のすべての抵抗は意味を失うからだ。 |