「事実としての熊の生活」
私のホームページはかなり凝ったものになっているけれど、私が制作したものではない。私は自分にデザインの才能がないことをよく知っているし、また身の回りには有能なデザイナーが大勢いるので、せいぜい詩は縦書きにしてくださいねとお願いする程度で、あとはデザイナーのセンスのままにいろいろなページが作られている。結果として、印刷物として見た詩とは別物になってしまっているケースもあるけれど、それはむしろ当然だ。 つまり、朗読にしても過去からの習慣があるから違和感がないかもしれないけれど、紙の上に書かれた詩を眼で読んだ感慨とは別の体験だ。詩の行が動き回ったり、色のついた行が出てきたり、さらに文字と同時に朗読が聞こえたり、これまでの読書とはだいぶ違う経験をすることになるのだから、どうしてもまったく別の感想になる。 印刷物、映画、ラジオ、テレビと媒体が新しくうまれる度に、新しい表現方法が開発されてきた。インターネットもまったく新しい媒体なので、いまその表現力が試されているのではないだろうか。言葉は新しい媒体の中でどのように機能するか、それを考えるとき詩は最適の言語表現のような気がする。意味に捕らわれすぎることなく、デザイン表現や音楽となじんできた歴史がそう思わせるのだろう。散文の場合、どうしてもインターネットの持つ強い情報性に捕らわれて、表現力が見えにくいと私は思う。 だからどうしたのかといえば、つまりこれでいいのだ。詩が、インターネットで新たな表現力を身につけるわけだから。その中で私は、言葉を紡ぎ続けよう。 |