私はいつも本当のことが言えなくて
1999年3月15日深夜 これは、私菓子を書き始めて以来一貫して変わっていないことなんだけれど、本当のことを書くことに強い心理的な抵抗感があった。たとえば、私は性的なことについて表面をなぞる程度のことしか書いていない。子供が五人もいるのだから、性的なことに関心がないわけではない。十九歳で結婚しているのだから、どちらかと言えば早熟な性生活を送ってきたといえるだろう。それでも、詩の題材としての性的な出来事については、ひどく臆病だ。言い訳があるとすれば、私の性生活は他人と共有するようなものではないと思えるのだ。秘め事は、秘め事として誰とも分かち合うことなく、死んでいくのが良い。実際、私が性的なことについてどんな考え方をしているかについて、妻も知らないと思う。 それでいて、愛という言葉は同世代の詩人と比べて多用している方ではないだろうか。愛も恋いも、言葉にしてしまうと本当らしさが消えて、使うことに照れを感じない。言葉としての愛が持っているテクスチャーが気に入っているだけかもしれない。 家族について書くときも、かなり抽象的だ。私の家族に似ていて、それでいてどこかよそで暮らしている家族のことを書いている。 一時期、家族という言葉を使うことで、自分が家族的な人間であるかのように錯覚していたような気もするが、詩の中の家族は私の家族ではない。 いま、過去形というタイトルで括った詩集の卵を制作中だけれど、ここに出てくる過去も、言ってしまえば私が自分に都合良く歪曲した過去の幻想だろう。なにしろ、私が思いこんでいる過去と、友人が見ている私の過去は違うものだし、その上私がいまの視点でゆがめたり嘘をついたりしているのだから始末に負えない。 そうはいっても、そのどこかに私がいるのは間違いない。好むと好まざるとに関わらず、法統のことが家憲が書けない私も、嘘つき名私も私だからだ。 |